フランス現代思想⑥
ジル・ドゥルーズ(1925-1995)、フェリックス・ガタリ(1930-1992)
1968年の五月革命以後の閉塞状況にあった若い世代に影響を与え、構造主義からポスト構造主義への転換を遂行した
「アンチ・エディプス的であること」←若者から支持
:フロイト(エディプス・コンプレックス)やラカンは、欲望の自由な流れを家族という枠組みに閉じ込め、 多様な可能性を摘み取ってしまうとして批判
統合を目指すパラノイア ⇔ 差異化する分裂症(スキゾフレニー)
定住的 ⇔ 遊牧的(ノマド的)
欲望する諸機械(人間≒欲望≒諸機械)
ドゥルーズ=ガタリの思想=欲望を全面的に肯定する思想
欲望=多様な方向へ流れる=規制(コード化)できない=脱コード的
ドゥルーズ=ガタリ「欲望を規制する秩序があれば、欲望はそれを破壊するだろう。欲望は本質的に革命的である。」
リゾームと欲望のパラドックス
※リゾーム(根茎)=多様性と非等質性を原理とする「非中心化システム」の比喩=スキゾ(分裂症)的でノマド(遊牧)的
⇔序列(中心化システム)=ツリー(樹木)
ツリーを拒否し、多様な方向へ広がり多様なかたちで連結するリゾームを評価した
☆しかし、「リゾーム的に広がる欲望がなぜ自分自身を抑圧することになるのか」という問いに対して明確な答えを出すことができなかった
現代思想の開拓者⑦ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
⑦ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
・哲学の三大潮流(マルクス主義・実存主義・分析哲学)のうちの一つ、分析哲学(前期・後期)に決定的な影響を与えた
前期=論理実証主義(実証可能な数学・論理学・自然科学こそ真)
→形而上学の批判
『論理哲学論考』:「この書によって哲学のすべての問題を原理的に解決した」
・写像理論:「言語が世界を写す像」とみなす
言語>文「命題」>単語「名」 世界>事実>対象
※ウィトゲンシュタインは文や事実を基本とした(ソシュールは単語を基本とした)
注 ここでいう言語は、理想言語(写像)であり日常言語ではない
・言語ゲーム(言葉が織り込まれた活動の総体)
「おはよう」≠写像(それだけでは何を写しているのか分からない)
言葉の意味の理解=それぞれの場面で適切な言葉を使用すること
☆言語ゲーム論が近代的な意識中心的な考えを乗り越えていることに注目
→言語の習得抜きに人間社会や世界理解は不可能
彼はアイデアこそ示したが言語ゲーム論の詳細については展開していない
【まとめ】東浩紀『動物化するポストモダン』
記念すべき書評第一回は、『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』
なかなかセンセーショナルなタイトルである。
昨今、「愚民社会」やら「一億総ガキ社会」といった挑発的なタイトルの本で溢れているが、一方的かつ検証不能なイメージが勝手に先行して敬遠していた。
この本はどうかというと、これまでのサブカルに関する考察を丁寧に踏まえており、そういった類の書物とは一線を画すものといえそうだ。
さて、内容についてであるが、筆者によれば、「※1オタク系文化の本質」と「※2ポストモダンの社会構造」の間には既に以下のような共通点が挙げられているという。
1.二次創作の横溢=シミュラークルの全面化
二次創作とは原作のマンガやゲームを主に性的に読み替えて制作・売買される同人誌、同人フィギュアなどの総称を指す。
これはフランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールが予見した文化産業の未来に近いという。ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。(p.40-41)
※1 コミック、アニメ、ゲーム、SF、フィギュアその他が互いに結び付いた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称(p.8)。
※2 70年代以降の文化的世界を指す。その起源は複製技術の登場や人間観の変容など20年代から30年代に遡る。19世紀的な近代の産物である啓蒙や理性といった「大きな物語」が第一次大戦によって凋落し始めると、1989年の冷戦崩壊により共産主義という最後の大きな物語を人類は失うことになる。
2.大きな物語の凋落
共産主義単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立にとって替わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応している。
現実の「大きな物語」が失われた結果生じた空白を埋めるべく、虚構のなかに物語を求めるようになったという。オタクたちの行動を特徴づける虚構重視の態度はそのように説明されている。
また、近代からポストモダンへの移行(1970年あたり)にあたって、物語の凋落とオタクの出現の関連性を次のように述べている。
"近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは。大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た70年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。(p.44)"
ふーむ。「物語」と聞くと、戦後日本の高度成長で全ての国民が「頑張れば今よりも明日の暮らしがよくなる」という『ALWAYS3丁目の夕日』的な価値感を想起させられるが、世界の座標軸で捉えなおすと「啓蒙や理性」まで物語の射程で捉えるあたり新鮮であった。
続けて、オタクとは物語を必要とされる時代に育つも、社会の物語が凋落し、それを補完すべく虚構に物語を求めたという。90年生まれの私は物語を必要としない世代に含まれ、ひたすら※3データベースを消費する行動をとるようだ。
※3筆者はインターネットを例に説明している。インターネットには中心がないことから全体を規定する「大きな物語」は存在しない。一方に情報の蓄積があり、他方にユーザーの「読み込みに応じて」つくられたウェブページが存在する二層構造の仕組みだ。表層はシミュラークル(本物と偽物の区別がつかない小さな物語)で溢れているが、深層にはデータベースが存在し、小さな物語で分解された「萌え要素」が蓄積されており、互いの層が影響し合う関係にあるという。
ふと、この説明を聞いて思いついたキャラクターがある。名探偵コナンの灰原哀とエヴァンゲリオンの綾波レイだ。理由は同一の声優であるということ。つまり萌え要素としての「声」が同じデータベースから抽出されキャラづくりに採用されたということである。この場合、時系列的に綾波レイ(前)のシミュラークルとして灰原哀(後)が作られたと考えられる。著者によれば、綾波レイの元となるキャラクターが存在していたようだ。その他に気づいた共通の萌え要素を挙げるとすれば、髪が「ボリューミー」で「内巻き」であるということ、「キャラクターの背後にある神秘性」などだろう。
他にも筆者が挙げている「萌え要素」の例として、「不治の病」「前世からの宿命」「孤独」などがある。
「不治の病」「孤独」については想像に難くない。弱い男でも「所有できる」というマッチョイズム的な自信を与え、あるいは「あなた無しでは生きていくことができない」という依存の感覚に男としての本能を奮い立たせるのだろう。
END